地球、その表面の約7割を覆う広大な海。それは、私たちが呼吸する酸素の半分以上を生み出し、気候を穏やかに保ち、数え切れないほどの生命を育む、まさに「生命の源」です。
食卓に並ぶ豊かな海の幸、心を癒す美しい海岸線の風景、そして私たちの文化や歴史に深く刻まれた存在。私たちは、意識するとしないとにかかわらず、海の計り知れない恩恵を受けて生きています。
しかし、このかけがえのない青い惑星の心臓部が、今、静かに悲鳴を上げています。
かつては無限と思われたその豊かさは、私たちの活動によって脅かされ、その輝きを失いつつあるのです。プラスチックごみが波間を漂い、化学物質が生命を蝕み、気候変動がサンゴ礁を白化させる。これは遠い国の話ではなく、私たちの足元で、そして世界中で同時に進行している現実です。
今回は、海の危機から目をそらさず、その現状を正しく理解し、そして未来のために行動を起こしたいと願うすべての人々のための羅針盤です。
目次
第1章:データで見る海の危機 – 日本と世界の現状
海の危機は、もはや漠然とした不安ではなく、具体的なデータによって裏付けられた喫緊の課題です。
ここでは、日本と世界が直面する海洋汚染の厳しい現実を、客観的な数値と共に見ていきましょう。
日本の海で起きていること:油とごみがもたらす汚染
四方を海に囲まれた海洋国家である日本。その沿岸では、どのような汚染が起きているのでしょうか。
海上保安庁が発表した最新の報告書は、その実態を浮き彫りにしています。
海上保安庁の「令和6年の海洋汚染の現状(確定値)」によると、2024年に日本周辺で確認された海洋汚染の件数は416件に上ります。
これは、ほぼ毎日、日本のどこかの海が汚されていることを意味します。その内訳を見ると、汚染の二つの大きな原因が見えてきます。
表1:日本の海洋汚染の原因(2024年)
汚染物質 | 確認件数 | 全体に占める割合 |
油 | 286件 | 69% |
廃棄物 | 102件 | 25% |
有害液体物質等 | 28件 | 6% |
合計 | 416件 | 100% |
出典:海上保安庁「令和6年の海洋汚染の現状(確定値)」を基に作成
最も多いのは「油」による汚染で、全体の約7割を占めています。
これは、船舶からの事故や不適切な取り扱いによる油の流出が後を絶たないことを示しています。
次に多いのが「廃棄物」による汚染です。陸上から不法に投棄されたごみや、漁業活動で使われた道具などが、海岸の景観を損なうだけでなく、海洋生物に深刻な被害を与えています。

世界の海を覆うプラスチックの脅威
目を世界に転じると、さらに衝撃的な現実が待っています。特に深刻なのが、プラスチックによる汚染です。
国連環境計画(UNEP)の報告によれば、世界では毎年少なくとも800万トンものプラスチックごみが海に流出していると推定されています。
これは、重さに換算すると「東京スカイツリー約222基分」に相当する、想像を絶する量です。このまま対策が取られなければ、2050年には海のプラスチックごみの量が魚の量を上回るという、悪夢のような未来が予測されています。
毎年1900万トンから2300万トンのプラスチックが水界生態系に流出していること。すでにその数は銀河系の星の数より多く、2050年には魚の量より多くなると予測されていること。
出典:国連広報センター「やめよう、プラスチック汚染」
さらに、九州大学などの研究チームは、日本周辺の海に浮かぶマイクロプラスチック(直径5mm以下の微細なプラスチック粒子)の量が、世界平均の27倍にも達するという調査結果を発表しています。
これは、日本がプラスチック汚染の「ホットスポット」の一つであることを示唆しています。私たちが日常的に利用するプラスチック製品が、分解されることなく海を漂い、生態系に取り込まれ、最終的には私たちの食卓にまで影響を及ぼす可能性が指摘されているのです。
これらのデータは、海洋汚染が決して対岸の火事ではなく、私たちの生活と密接に結びついた問題であることを明確に示しています。次の章では、こうした危機に対し、世界と日本がどのように立ち向かおうとしているのかを見ていきます。
第2章:未来のための羅針盤 – 海を守る世界の取り組み
深刻化する海の危機に対し、私たちは決して無力ではありません。国際社会、国、そして地域社会が連携し、未来の海を守るための羅針盤となる取り組みが進められています。ここでは、その代表的な動きと、希望の光となる成功事例を紹介します。
世界が一つになる時:「大阪ブルー・オーシャン・ビジョン」
海洋プラスチックごみ問題は、一国だけで解決できる問題ではありません。
この課題に国際社会が一体となって取り組む大きな一歩となったのが、2019年に日本が議長国として開催したG20大阪サミットです。このサミットで共有されたのが「大阪ブルー・オーシャン・ビジョン」です。
このビジョンは、「2050年までに追加的なプラスチックごみによる海洋汚染をゼロにすること」を目指すという野心的な目標を掲げました。これは、各国の自主的な対策を促すものであり、その後、多くの国や地域がこのビジョンを共有し、プラスチック汚染対策を加速させるきっかけとなりました。
さらに現在、このビジョンをより実効性のあるものにするため、法的拘束力を持つプラスチック汚染に関する国際条約の策定に向けた政府間交渉が進められています。
プラスチックの生産から廃棄、リサイクルに至るまでのライフサイクル全体を規制対象とし、汚染を根本から断ち切るための世界的なルール作りが、今まさに進行中なのです。
日本の国家戦略:「海洋生物多様性保全戦略」
四方を豊かな海に囲まれた日本は、独自の国家戦略を掲げ、海の保全に取り組んでいます。その中核となるのが、環境省が策定した「海洋生物多様性保全戦略」です。
この戦略は、海の生態系を守り、その恵みを持続可能な形で未来へと引き継ぐことを目的としており、以下の5つの柱に基づいた総合的なアプローチを推進しています。
1.科学的知見の集積:海の状況を正確に把握するための調査・研究を推進。
2.モニタリングと評価:海洋環境の変化を継続的に監視し、対策の効果を評価。
3.海洋保護区(MPA)の設定・管理:重要な生態系を持つ海域を保護区として指定し、適切に管理。
4.持続可能な利用の推進:漁業などの経済活動と環境保全の両立を目指す。
5.国民の理解と参加の促進:教育や普及啓発活動を通じて、国民全体の意識を高める。
この戦略に基づき、サンゴ礁生態系の保全活動や、漂流・漂着ごみ対策、絶滅危惧種の保護など、多岐にわたる具体的な施策が全国で展開されています。

希望の光:地域からの成功事例
壮大な国際目標や国家戦略も重要ですが、海の未来を本当に変えるのは、現場での地道な行動です。日本国内にも、地域の努力によって素晴らしい成果を上げている事例があります。
その代表例が、沖縄県恩納村の取り組みです。かつて、地球温暖化の影響によるサンゴの白化現象で深刻なダメージを受けたこの村は、2018年に「サンゴの村」を宣言。
漁業協同組合、観光協会、そして村民が一体となり、サンゴの植え付けや保全活動に乗り出しました。その結果、多くのサンゴ礁が息を吹き返し、豊かな生態系が回復しつつあります。
この成功は、地域の知恵と協力がいかに大きな力を持つかを示す、感動的なモデルケースとなっています。
このように、世界、国、そして地域がそれぞれのレベルで行動を起こし始めています。次の章では、私たち一人ひとりが、この大きなうねりにどう参加できるのか、具体的なアクションプランを見ていきましょう。
第3章:私たちの一滴が大海を変える – 日常にできるアクションプラン
海の危機という大きな問題に対し、「自分一人が何かしても変わらない」と感じるかもしれません。しかし、私たち一人ひとりの日々の選択と行動、その「一滴」が集まることで、大海を変える大きな力となります。
環境省が示す「わたしたちにできること」を参考に、今日から始められる具体的なアクションプランを紹介します。
Step 1:知る・感じる – 海との絆を深める
行動の第一歩は、対象への理解と愛情から生まれます。まずは、海の豊かさ、美しさ、そして直面している問題を「自分ごと」として感じることが重要です。
•海へ出かけよう:週末に近くの海岸を散歩したり、海水浴や磯遊びを楽しんだりするだけでも、海とのつながりを再認識できます。海岸に打ち上げられたごみを目の当たりにすれば、問題の深刻さがよりリアルに感じられるでしょう。
•海の知識を深めよう:水族館や博物館を訪れたり、海洋環境に関するドキュメンタリー映画を観たりするのも良い方法です。書籍や信頼できるウェブサイトで、海洋生物の生態や環境問題について学んでみましょう。
•地域の活動に参加する:多くの地域で、ビーチクリーン(海岸清掃)活動や、サンゴの観察会といったイベントが開催されています。同じ志を持つ人々と交流しながら、楽しみながら学ぶことができます。
Step 2:選ぶ – 賢い消費者になる
私たちの日常の「買い物」は、海の未来を左右する投票行動です。少し意識を変えるだけで、環境に配慮した選択が可能になります。
•海の恵みを責任を持っていただく:水産資源を守るため、MSC認証(海のエコラベル)など、持続可能な漁業で獲られたことを示す認証ラベルのついた商品を選びましょう。また、地元の海で獲れた旬の魚を選ぶ「地産地消」も、輸送エネルギーの削減と地域漁業の応援につながります。
•使い捨てプラスチックを断る勇気:私たちの生活は、驚くほど多くの使い捨てプラスチックに囲まれています。マイバッグやマイボトル、マイ箸を習慣にし、「レジ袋は要りません」「ストローは結構です」と、断る勇気を持ちましょう。過剰な包装を避け、詰め替え製品を選ぶことも効果的です。
•環境に優しい製品を選ぶ:洗濯洗剤や食器用洗剤など、日用品を選ぶ際には、生分解性が高く、環境への負荷が少ない製品を選びましょう。
Step 3:行動する・広げる – アクションの輪を広げる
知識を得て、選択を変えたら、次はその輪を広げていきましょう。
•清掃活動に参加する:前述のビーチクリーンだけでなく、河川敷の清掃活動に参加することも重要です。街で出たごみの多くは、川を通って海へと流れ着くため、内陸部での活動も海洋ごみの削減に直結します。
•支援の輪に加わる:海洋保護を専門に行うNPOやNGOが数多く存在します。ウェブサイトでその活動を調べ、共感できる団体に寄付をしたり、ボランティアとして参加したりすることも、大きな支援となります。
•あなたの声を届ける:学んだことや実践していることを、家族や友人に話してみましょう。SNSでハッシュタグ「#海洋保護」などをつけて発信するのも良い方法です。あなたの小さな発信が、誰かの意識を変えるきっかけになるかもしれません。
これらのアクションは、決して難しいものではありません。一つでも二つでも、できることから始めてみることが大切です。その一歩が、青い地球の未来を守るための、確かな一歩となるのです。

結論:未来の海への誓い
私たちは、油にまみれた海鳥の姿や、プラスチックごみで埋め尽くされた海岸の映像に胸を痛めます。データが示す未来予測に、言いようのない不安を感じることもあるでしょう。海の危機は深刻であり、その責任の多くは、私たちの便利な生活にあることも事実です。
しかし、決して手遅れではありません。この記事で見てきたように、国際社会は「大阪ブルー・オーシャン・ビジョン」のもとで結束し、日本も「海洋生物多様性保全戦略」を掲げています。
沖縄県恩納村のように、地域の力で豊かな海を取り戻した感動的な事例もあります。
重要なのは、この問題を「誰かが解決してくれる問題」ではなく、「私たち一人ひとりが当事者である」と認識することです。海を守るという壮大なテーマは、日々の小さな選択の積み重ねから始まります。レジ袋を断ること、エコラベルのついた魚を選ぶこと、海岸でごみを一つ拾うこと。その一つひとつは、大海の一滴に過ぎないかもしれません。
しかし、その無数の「一滴」が集まる時、それは時代を動かす大きなうねりとなります。個人、地域、企業、そして国がそれぞれの立場で役割を果たし、連携することで、汚染の流れを食い止め、豊かな生態系を回復させ、持続可能な海の未来を築くことができるはずです。
未来の子供たちが、私たちが今享受しているのと同じように、美しく豊かな海の恵みを受け取ることができるように。私たち一人ひとりが、青い惑星の未来に対する責任を自覚し、賢明な選択と行動を誓うこと。それこそが、今、最も求められているのです。