街角で、白いハーネスを身に着けた犬と共に歩く視覚障害者の姿を見かけたことがあるでしょう。その犬こそが「盲導犬」です。
彼らは単なるペットではありません。視覚障害者の「目」となり、安全な歩行を支え、時には心の支えとなる、かけがえのないパートナーなのです。
盲導犬との生活は、視覚障害者にとって革命的な変化をもたらします。白杖での単独歩行と比べ、移動速度は格段に向上し、障害物を避ける精度も高まります。
何より、「一人ではない」という安心感が、外出への意欲を高め、社会参加の幅を大きく広げるのです。
しかし、その重要性とは裏腹に、日本の盲導犬を取り巻く環境は多くの深刻な課題を抱えています。
希望者の4分の3が盲導犬を得られない現実、一頭あたり500万円という莫大な育成費用、そして法律で義務化されているにもかかわらず後を絶たない「同伴拒否」。これらの課題は、視覚障害者の自立と社会参加を阻む高い壁となっています。
今回は、データと事実に基づき、日本の盲導犬が直面するリアルな現状を多角的に検証します。育成の困難さから社会の無理解まで、その背景にある構造的な問題を掘り下げ、私たち一人ひとりが共生社会の実現のために何ができるかを考えていきます。
目次
第1章:数字が語る厳しい現実 – 需給ギャップの深刻さ
希望者3,000人に対し、実働わずか836頭
日本の視覚障害者は約31万人。そのうち盲導犬との生活を希望する人は約3,000人と推定されています。
しかし、2023年3月末時点で実際に稼働している盲導犬は全国でわずか836頭に過ぎません。これは希望者のおよそ4分の1しか満たせていない計算で、2,000人以上が盲導犬を待ち続けている状況です。
さらに深刻なのは、この数が年々減少していることです。2019年には928頭だった実働数は、この4年間で約10%も減少しました。2010年頃をピークに漸減傾向が続いており、近年の育成頭数は120〜150頭で横ばい状態です。
国際比較で見る日本の遅れ
この数字を国際的な視点で見ると、日本の盲導犬普及率の低さが際立ちます。2018年度の国際盲導犬連盟(IGDF)年次報告書によると、世界全体で約22,000頭の盲導犬が活躍しています。そのうち、イギリスでは約5,000頭、アメリカでは約10,000頭が稼働しており、人口比を考慮しても、日本がいかに遅れをとっているかが分かります。
国名 | 盲導犬数 | 人口(百万人) | 人口10万人当たり |
アメリカ | 約10,000頭 | 331 | 約3.0頭 |
イギリス | 約5,000頭 | 67 | 約7.5頭 |
オーストラリア | 約1,000頭 | 26 | 約3.8頭 |
日本 | 836頭 | 125 | 約0.7頭 |
この表からも明らかなように、日本の盲導犬普及率は他の先進国と比べて著しく低い水準にあります。
法的基盤:「身体障害者補助犬法」の理念と現実
盲導犬の社会参加を法的に保障するのが、2002年に施行された「身体障害者補助犬法」です。
この法律は、盲導犬、介助犬、聴導犬を「身体障害者補助犬」と定義し、公共施設、交通機関、不特定多数が利用する民間施設において、補助犬の同伴を原則として拒んではならないと定めています。
法律は明確に施設側の「受け入れ義務」を規定しており、正当な理由なく同伴を拒否することは違法行為です。しかし、後述するように、この法的保障と社会の現実の間には大きな溝が存在し、それがユーザーの日常生活に深刻な影響を与えています。

第2章:パートナー誕生までの険しい道のり – 育成プロセスの光と影
10年間の犬生をかけた長い旅路
一頭の盲導犬が誕生し、ユーザーの元で活躍し、そして引退するまでの道のりは、約10年間にわたる壮大なプロジェクトです。この過程は、多くの人々の愛情と専門性によって支えられています。
1. パピーウォーカー期(生後2ヶ月〜1歳)
生後2ヶ月の子犬は、「パピーウォーカー」と呼ばれるボランティア家庭に預けられます。ここで約10ヶ月間、人間社会の基本的なルールを学び、愛情を一身に受けて健やかな心と体を育みます。電車やバス、レストランなど様々な環境に慣れ親しみ、将来の任務に向けた社会性を身につけるのです。
2. 専門訓練期(1歳〜2歳)
1歳になると、全国11ヶ所の盲導犬訓練センターで本格的な訓練が始まります。基本的な服従訓練から始まり、ハーネスを装着しての誘導訓練へと進みます。障害物の回避、段差や角の認識、交通状況の判断など、盲導犬に求められる高度な技能を一つひとつ習得していきます。
3. 共同訓練期(約4週間)
訓練を修了した犬は、パートナーとなる視覚障害者との「共同訓練」に臨みます。ユーザーは訓練センターに宿泊し、約4週間にわたって犬との歩行技術を学び、互いの信頼関係を築きます。歩行速度や性格の相性を訓練士が慎重に見極め、最適なペアリングを行います。
4. 現役期(約8年間)
共同訓練を経て正式にデビューした盲導犬は、約8年間、ユーザーの目として活躍します。日々の通勤から買い物、旅行まで、あらゆる場面でユーザーを支えます。
5. 引退期(10歳〜12歳頃)
10歳前後で引退を迎えた盲導犬は、「引退犬ボランティア」の家庭に引き取られ、家庭犬として穏やかな余生を過ごします。長年の功労に報いるこの期間もまた、盲導犬の生涯の大切な一部です。
成功率わずか3割の厳しい選抜
しかし、この道のりを最後まで歩める犬は多くありません。
日本盲導犬協会によると、候補犬のうち最終的に盲導犬として認定されるのは、わずか3〜4割に過ぎません。
残りの6〜7割は、訓練の過程で様々な理由から「盲導犬には不適合」と判断されます。音に過敏に反応する、他の犬に気を取られやすい、股関節に遺伝的な疾患が見つかるなど、その理由は多岐にわたります。
これらの犬は「キャリアチェンジ犬(CC犬)」と呼ばれ、PR犬として活動したり、一般家庭にペットとして引き取られたりします。
この厳しい選抜は、盲導犬がユーザーの生命に関わる責任を負っているからです。どんな状況でも冷静に判断し、ユーザーを安全に導く能力が求められるため、妥協は許されません。しかし、この厳格さが結果として盲導犬の絶対数不足を招いている側面もあります。
深刻な担い手不足
盲導犬育成を支える人々の不足も深刻な課題です。特に以下の2つの分野で人材不足が顕著です。
パピーウォーカーの不足
子犬を10ヶ月間無償で預かり、愛情を注いで育てるパピーウォーカーは、盲導犬育成の根幹を担っています。しかし、集合住宅での飼育の難しさ、責任の重さ、そして最終的に手放さなければならない心理的負担などから、常に不足している状況です。
盲導犬訓練士の極端な少なさ
全国の盲導犬訓練士は約80名程度しかいません。
一人の訓練士が同時に担当できる犬の数には限りがあり、新たな訓練士を育成するにも長い年月とコストがかかります。この専門職の不足が、育成可能な盲導犬の数を制限する直接的な要因となっています。

第3章:1頭500万円の重み – 脆弱な財政構造
育成費用の詳細な内訳
一頭の盲導犬を育成し、ユーザーの元へ届けるまでにかかる総費用は約500万円に上ります。この巨額の費用は、以下のような項目で構成されています。
兵庫盲導犬協会の報告によると、年間の主要な支出項目は以下の通りです:
費目 | 年間費用 | 主な内容 |
医療費 | 約250万円 | 健康診断(50万円)、治療費(200万円) |
環境維持費 | 約100万円 | 光熱費、水道代、浄化槽維持管理費 |
犬具費 | 約50万円 | ハーネス、リード、首輪(特注品) |
フード費 | 約10万円 | 訓練犬・繁殖犬用ドッグフード |
その他 | – | 訓練士人件費、車両維持費、事務経費 |
特に注目すべきは医療費の高さです。盲導犬は常に最高の健康状態を維持する必要があり、定期的な健康診断や予防接種、万が一の際の治療費が大きな負担となっています。
また、盲導犬が装着する白いハーネスも特殊な犬具です。ユーザーの身長や犬の体格に合わせて革職人が一つひとつ手作りするオーダーメイド品で、安全性を確保するために非常に頑丈に作られているため、一つあたり数万円という高価格になります。
9割を寄付に依存する危うい経営
この莫大な費用を誰が負担しているのでしょうか。驚くべきことに、盲導犬育成団体の活動費用の実に9割以上が、個人や企業からの寄付によって賄われています。
国からの直接的な公的支援はなく、一部の自治体からの助成金はあるものの、その額は限定的です。
つまり、私たちが街で見かける盲導犬は、無数の人々の「善意」によってかろうじて支えられているのが現実なのです。この構造は、社会保障制度の一環として位置づけられるべき事業が、民間の慈善活動に委ねられているという根本的な問題を浮き彫りにしています。
コロナ禍と物価高騰のダブルパンチ
近年、この脆弱な財政基盤はさらなる打撃を受けています。
第一の打撃:コロナ禍による収入減 新型コロナウイルスの感染拡大により、育成団体の主要な収入源であった街頭募金やチャリティーイベントの多くが中止に追い込まれました。人々が寄付に触れる機会が激減し、多くの団体が大幅な収入減に見舞われています。
第二の打撃:物価高騰による支出増 世界的なインフレの影響で、ドッグフード代、電気代、水道代、ガソリン代など、あらゆる運営コストが上昇しています。収入が減る一方で支出は増え続けるという、まさに「ダブルパンチ」の状態です。
兵庫盲導犬協会は、「ようやくコロナ禍が落ち着いてきたものの、感染拡大時に街頭募金やイベントなどが中止になったことによるご寄付落ち込みの影響は未だ大きい」「電力代やフード費の高騰も押し寄せている」と、その厳しい現状を訴えています。
この財政的な困窮が、訓練士の増員や施設の拡充を困難にし、結果として盲導犬の育成頭数が伸び悩む大きな原因となっています。

第4章:法律があっても消えない壁 – 受け入れ拒否という社会課題
44%が体験する理不尽な現実
盲導犬の育成を阻む内部的な課題に加え、ユーザーの社会参加を直接的に妨げているのが「受け入れ拒否」という深刻な社会問題です。
日本盲導犬協会が2023年に実施した実態調査の結果は衝撃的でした。
盲導犬ユーザー237人を対象とした調査で、44%にあたる103人が過去1年間に受け入れ拒否を経験したと回答したのです。拒否された延べ回数は208回に上り、これはほぼ2日に1回の頻度で、どこかで拒否が発生している計算になります。
拒否が発生する場所の内訳を見ると、「飲食店」が55%と最も多く、次いで「交通機関」が12%、「宿泊施設」が9%となっています。日常生活に不可欠なこれらの場所での拒否は、ユーザーの生活の質を大きく損なっています。
具体的な拒否事例とその影響
実際の拒否事例を見ると、その理不尽さが浮き彫りになります。
神奈川県内でタクシーに乗ろうとした盲導犬ユーザーは、運転手から「盲導犬とはいえ、犬は乗せられない」と告げられました。この事例では、後日タクシー会社が謝罪し、全乗務員に対応を周知したものの、ユーザーが受けた精神的ダメージは計り知れません。
日本盲導犬協会は、「受け入れ拒否はユーザーの日常的な行動を左右し、社会参加への意欲をそぐ深刻な障壁となっている」と指摘しています。拒否を恐れて外出を控えるようになったり、事前に電話で確認してから店を訪れるようになったりと、本来自由であるべき移動や活動が制約されているのです。
なぜ拒否は起きるのか? – 無知と偏見の構造
身体障害者補助犬法という明確な法的根拠がありながら、なぜ受け入れ拒否は後を絶たないのでしょうか。その背景には、以下のような複合的な要因があります。
1. 法律への無理解・知識不足
最も根本的な問題は、事業者側の法律に対する無知です。
「補助犬の同伴受け入れが法律で義務化されている」という基本的な事実すら知らない、あるいは「努力義務」程度に誤解しているケースが多数存在します。従業員への教育が不十分で、現場のスタッフが独自の判断で拒否してしまうのです。
2. 衛生面に関する根深い偏見
「犬だから不衛生」という偏見も、特に飲食店での拒否の大きな要因です。しかし、盲導犬はユーザーによって厳格な健康管理とグルーミングが行われており、衛生面では一般のペットとは比較にならないほど徹底されています。また、盲導犬は店内をうろついたり、食べ物をねだったりすることは一切ありません。
3. アレルギーへの過剰な懸念
「他のお客様に犬アレルギーの方がいたら」という懸念もよく聞かれます。しかし、補助犬法では、アレルギーを持つ客がいる場合、席を離すなどの「合理的配慮」を求めており、補助犬の同伴を即座に拒否する理由にはなりません。
4. 感情的な反発
個人的に犬が苦手、怖いという感情から反射的に拒否するケースもあります。しかし、盲導犬は極めて穏やかで従順な性質を持つ犬だけが選ばれ、厳しい訓練を受けています。
これらの要因が絡み合い、法律の理念とは裏腹に、盲導犬ユーザーが社会から排除されるという現実を生み出しています。
第5章:数字では測れない価値 – ユーザーが語る盲導犬との絆
「外に出ることが楽しくなった」- 人生を変える出会い
盲導犬がもたらすのは、単なる移動手段の改善だけではありません。ユーザーの人生そのものを大きく変える力を持っています。
全日本盲導犬使用者の会会長の山本誠さん(56歳)は、生まれつきの目の病気で14歳で視力を失い、15年ほど前から盲導犬カエデちゃん(ラブラドール・レトリーバー)と生活しています。
山本さんは盲導犬との生活の変化を、「たとえて言うのなら、自転車と車の移動ぐらい快適さが違います」と表現します。白杖での歩行と比べて格段に快適になったのです。
しかし、最も大きな変化は心理的な面でした。「外に出ることが楽しくなりました」と山本さんは語ります。
以前は明確な目的がないと外出しなかったのが、散歩も兼ねて気軽に外に出るようになったのです。「外に出ても安全性が高ければ苦にならない」という言葉からは、盲導犬がもたらす安心感の大きさが伝わってきます。
引用:TBS NEWS DIG. (2024). 「サポート役だけでなく人生のパートナーとして」年々減少する盲導犬…育成の最前線を取材. https://newsdig.tbs.co.jp/articles/sbs/1596522?display=1
共同訓練 – 人と犬が「チーム」になる過程
この深い絆は、約4週間の共同訓練期間に築かれます。ユーザーは訓練センターに宿泊し、訓練士の指導のもと、犬との歩行技術を一から学びます。相性や歩行速度などを総合的に判断し、最適なペアリングが行われるのです。
この期間は、単に歩行技術を習得するだけでなく、人と犬が互いを理解し、信頼関係を築く貴重な時間です。訓練を経て、二者は一心同体の「チーム」となり、長い共同生活をスタートさせます。
盲導犬が持つ社会的な「架け橋」効果
盲導犬には、もう一つ重要な役割があります。それは、ユーザーと社会をつなぐ「架け橋」としての機能です。
ラブラドール・レトリーバーの愛らしい外見は、特に子どもたちに受け入れられやすく、「かわいい」と言ってもらえることで電車に乗りやすくなるという副次的な効果もあります。盲導犬の存在が、視覚障害者への社会の関心と理解を高める役割も果たしているのです。
「家族」としての盲導犬
約8年間の現役生活を終えた盲導犬は、引退後も多くの場合、ユーザーや関係者に見守られながら余生を過ごします。彼らは単なる「歩行補助具」ではなく、喜怒哀楽を共にした「家族」であり、「人生のパートナー」なのです。
兵庫盲導犬協会は、「盲導犬は単なる歩行補助具以上の存在。安全な歩行を支えるだけでなく、家族のようなパートナーとなって視覚障がい者の方々の自立や社会参加を促進してくれる。これは白杖やアプリでは成しえない効果」と述べています。

まとめ:私たちにできること – 共生社会への道筋
課題の整理と展望
これまで見てきたように、日本の盲導犬は三重の課題に直面しています。
1.育成頭数の絶対的不足 – 希望者の4分の3が盲導犬を得られない現実
2.脆弱な財政基盤 – 9割を寄付に依存する不安定な経営
3.社会の無理解 – 法律があっても消えない受け入れ拒否
これらの課題は相互に関連し合い、視覚障害者の自立と社会参加を阻む高い壁となっています。しかし、これらは決して乗り越えられない問題ではありません。私たち一人ひとりの理解と行動が、この状況を改善する力となり得るのです。
日常でできる支援 – 「そっと見守る」という配慮
最も身近で重要な支援は、街で盲導犬とユーザーを見かけた際の正しい接し方を理解し、実践することです。基本原則は「そっと見守る」こと。以下の「4つのない」を心がけましょう。
•声をかけない – 仕事中の盲導犬の集中を妨げる可能性があります
•食べ物を与えない – 厳格な食事管理が行われています
•じっと見つめない – 犬の気が散る原因になります
•触らない – ハーネス装着時は勤務中です
もしユーザーが困っているように見えたら、犬ではなく人に「何かお手伝いしましょうか?」と声をかけることが大切です。
積極的な関わり – ボランティアと寄付
より積極的に関わりたい方には、以下のような支援方法があります。
ボランティア参加
•パピーウォーカー:子犬を10ヶ月間育てる
•引退犬ボランティア:引退した盲導犬の余生を支える
•イベント支援:募金活動や啓発イベントの手伝い
寄付による支援
•継続的な月額寄付
•クラウドファンディングへの参加
•書き損じハガキや古本のリサイクル寄付
社会全体への期待
個人の努力に加え、社会全体の取り組みも重要です。
事業者への啓発
飲食店、交通機関、宿泊施設などの事業者に対する法律の周知と理解促進が急務です。業界団体や行政による継続的な啓発活動が求められます。
公的支援の充実
現在、盲導犬育成事業への国の直接的な支援は限定的です。社会保障制度の一環として、より安定した公的支援の仕組みを構築することが必要です。
教育現場での理解促進
学校教育の中で、障害者理解と補助犬に関する正しい知識を伝えることで、将来の社会の理解度向上につなげることができます。
未来への展望 – 誰もが尊重される社会へ
盲導犬ユーザーが、行きたい場所に自由に行き、やりたいことに挑戦できる社会。それは、障害の有無にかかわらず、誰もが尊重され、支え合う「共生社会」の実現そのものです。
受け入れ拒否という理不尽な壁がなくなり、すべての視覚障害者が希望すれば盲導犬と暮らせる社会。そんな社会の実現は、決して夢物語ではありません。
私たち一人ひとりの小さな理解と行動の積み重ねが、必ずその未来を切り開いていくはずです。